私がコンサルティングした空き家で、かつて起きたエピソードを少し紹介します。
(なお守秘義務もありますので仮名とどの家か特定できないようにしています)
私は、よく空き家を相続されたご家族と見に行くことがあります。特に遠方で住み管理にも困っているようなご家族は家に対する執着がないのですが、時々家のあるものから急に家に対する思い入れが変わることがあります。ほんの数分で劇的に変化したエピソードをお話しします。
「正直、もうどうでもいいんです。この家の面倒も見れないし。」
そう言った恵子さんの表情はどこか冷たかった。
彼女は遠方に住み、この家にはもう何年も足を踏み入れていないという。
私はコンサルティングのため、彼女と一緒に空き家となった実家を訪れることになった。
古びた引き戸を開けると、少し埃っぽい匂いがした。
長い間誰も住んでいなかったはずなのに、どこか温もりが残っている。
「ずいぶん荒れたわね…」
恵子さんはそう呟きながら、家の中を見回した。
しかし、私には彼女の目がどこか懐かしそうに揺れているように見えた。
家の裏へ回ると、縁側の横に小さな犬小屋があった。
雨風にさらされ、今にも崩れそうなそれを見た瞬間——恵子さんの動きが止まる。
「……あの犬小屋、まだあったんだ。」
彼女の声が震えていた。突然、恵子さんの目に涙が浮かんだ。
彼女はそっと縁側に座り込み、犬小屋をじっと見つめる。
「ここに、コロがいたの。」
コロ——恵子さんが幼い頃に飼っていた柴犬の名前だった。
いつも彼女を迎えに走ってきたこと、一緒に庭で遊んだこと、寒い冬の夜にはそっと寄り添ってくれたこと——
忘れていたはずの記憶が、一気にフラッシュバックする。
「お母さんがよく言ってた。『コロはけいちゃんが大好きだから、いつもそばにいるのよ』って。」
彼女の視線の先には、ぽつんと残された犬小屋。
そこにコロはいないのに、まるでその記憶だけが今も生き続けているかのようだった。
「ねえ、お母さん、ただいま。」
恵子さんは、小さな声で呟いた。
縁側に座り、ふと目を閉じる。
すると、幼い頃の自分が、そこにいる気がした。
お母さんが縁側で縫い物をしている。
自分は裸足のまま走り回り、コロとじゃれ合っている。
夕焼けが差し込み、家族の笑い声がこだまする——
「……忘れてた、こんなに幸せだったこと。」
彼女は頬を伝う涙を拭うこともせず、ただ静かに、縁側に流れる風を感じていた。
今、いろいろ考えましたが、
「……やっぱり、家は売ります。」
美咲さんは静かに言った。
私は少し驚いた。あんなに懐かしそうにしていたのに、決断は変わらないのか、と。
しかし、彼女は微笑んで続けた。
「でもね……次にここに住む家族が、この家で幸せになってくれたらいいな、って思うの。」
私はその言葉を聞いて、少しだけ安心した。
彼女にとって、この家はただの「処分すべき空き家」ではなくなったのだ。
それは、家族の温かい思い出が刻まれた場所であり、次に住む誰かの新しい幸せを紡ぐ場所でもある。
「コロも、お母さんも、きっとそう願ってる気がする。」
そう言って、恵子さんは縁側から立ち上がった。
彼女の表情は、もう迷いのない穏やかなものになっていた。
風が吹き抜ける庭先。
美咲さんはもう一度だけ犬小屋を見つめ、優しく微笑んだ。
そして、静かに家の扉を閉じる。
——まるで、新たな未来へ向かうように。
記憶の扉が開くとき、それは新しい誰かの幸せへと続いていく。
私は、恵子さんの心の変化を目の当たりにしました、家を処分することには変わりないですが家の処分に対する捉え方が大きく変わりました。やはり遠くから思っている時と、実際に自分の住んでいた記憶が蘇るのとでは全然感じ方が変わっていました。
結果、処分を決めた日から半年程で売却が決まりました。次のお住まいの方は、この建物を取り壊し新築されるとのことでしたが、このご家族にも小さな娘さんがおり、庭では犬を飼いたいと思っておられるようでした、この場所でまた新しい記憶が生まれていくことでしょう。
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